【余話】ばかり書いているが、本編の方は史料も頭の中でそこそこ整理できているので慌てることがないのに、こちらのシリーズは、たまたま何かの機会で思い出した話が主なので、また忘れてしまわないうちに、まとめておきたいのである。
■殖民軌道の…
根室線に、ほんの一時期のようなのだが、矢臼別土場線という、いわば引き込み線のようなものが存在した。
昭和8年ころから、国鉄標津線が国鉄根室本線の厚床から中標津方面に向かって徐々に開通していったのだが、従前の根室方面と別海村(現・別海町)の間には、舟運で、風蓮湖、ヤウシュベツ〔矢臼別〕川を経て、矢臼別の船着場に至り、殖民軌道矢臼別停留場から西別(現・別海)市街へという物流ルートがあったようである。
■しかし…
国鉄標津線は、厚床駅から次の奥行臼駅を経た後は、西別(後の別海)駅まで直行で、いわば矢臼別地域は素通りしてしまうので、おそらく、主として、それまでの舟運ルートを維持する目的と思われるが、軌道の風蓮ー矢臼別間が廃止された後、下図のように、矢臼別停留場から船着場までの引込線が作られた(同様に、厚床ー風蓮間も物流・人流を維持するために残された)。
昭和8年12月1日に、国鉄標津線が厚床からここ西別まで開通した際の写真 中央の線路は殖民軌道で、右方向に国鉄駅に向かう引込線が見える |
昭和10年版「別海村管内図」〔抜粋〕 |
国土地理院空中写真〔cho-78-4_c14a_52〕抜粋に軌道/道路跡補入 |
■この…
「矢臼別土場〔やうすべつどば〕」線の終端は、当時の別海温泉ホテル敷地内のヤウシュベツ河畔にあることが、同ホテルのブログに書かれていた ので、2008年10月半ば中標津に行った折「温泉ホテルなので日帰り入浴も可能かも」とバスタオルまで車に積み込んで矢臼別に向かった。
ホテルの場所自体は、国道沿いの丘の上にあって、従前奥行臼を訪ねたときに通りすがりに見知っていたので、スムーズにたどり着けた。
■しかし…
ホテルの玄関に着いてみると、何か様子がおかしい。
玄関ホールには大量に物が置かれ、奥の方が結構あわただし気な雰囲気だった。
声をかけると奥から玄関に現れた小柄ながらなかなかの美男子の中年男性が、ホテルの社長さんで別海町の町議会議員、加えて、別海町伊能忠敬記念碑建設期成会々長も務めている丹羽勝夫さんだった。
聞けば、若いころからの奥様との約束を実行してホテルを「定年終業」した直後で、後片付け中の由。
忙しそうなので、敷地内を巡検する許可をいただいて、あと、土場へのルートでもうかがえればと思って来意を付けると「東京から来られたとなると、放っておくわけにはゆかない」と、それから2時間ほど、敷地内だけでなく、ホテルに併設されている「なつかし館」という私設の博物館の中までご案内いただいた。
■この折の…
土場などのお話だけでも、盛りだくさんすぎて、10年経ってもうまくまとまらないのだが、それは後日に期して、ここでは、タイトルにもある伊能忠敬。
敷地内をご案内いただいたとき、倉庫の入口に立てかけてある、確か紺地に白抜きで「御用」と染め抜いた旗が目についた。
そのときのお話では、西別川が伊能忠敬の測量の北限/東限で、その記念イベントで使われた旗という程度にとどまっていたが、東京に帰ってからホテルのブログを見たところ、
なお、第一次伊能忠敬測量隊最東端測量の地 | 別海町歴史文化遺産 | 別海町の文化財 | 町の文化 | 教育・文化・スポーツ | 北海道別海町 (betsukai.jp) 参照
あのとき見た旗は、その
記念イベント (このページは、今回発掘)
で使われたものであることがわかった。
■さらに…
ことのついでに調べてみると、当地で開催された記念柱の除幕式には、いわば本家本元の伊能忠敬研究会の方々が、2007年に釧路市で開催された、伊能大図217枚のレプリカを床に敷き詰めた展示会に合わせて訪れていたことが、同会の会報
でわかった。
■この会報の…
p.6の2段目にある、伊能が天測した地点を示す西別川河口の「☆」印、なんとか見てみたいものだと思っていたのだが、その機会は意外に早く訪れた。
家内が受講していた、世田谷区の郷土資料館の古文書講座のお仲間に、忠敬の末裔の伊能洋氏夫人の陽子さんがおられ(お二人とも、当然ながら先の別海町のイベントに参加しておられる)、そのご縁で、2009年4月に江東区の深川スポーツセンターで開催されたフロア展のご案内をいただいたのである。
左端が陽子さん |
■会場に着くと…
なにをさておいても、床一面に敷き詰められている大図の西別川河口に向かったのはいうまでもない。
図の北東端というか右上隅なので、見つけるのに何の造作もなく、
あった!
「フーレントー」の「フ」の左下が「ヤウシュベツ川」河口 |
ニシベツ川河口に、朱色で描かれた☆印がある。
このときの北極星の仰角の測定データと、江戸からここまでの距離の計算値のどちらかに信頼性を疑うような問題がない限り、ここと、江戸との測定データによって、伊能が地球の大きさを計算したことはまず疑いがない。
つまり、この別海町のニシベツ川河口は、単に伊能測量の最東端、最北端という以上の、日本の測量史上の「聖地」なのである。【追記】
当時の伊能の測量日記は、
■少し…
落ち着いてから、我が家周辺の武蔵国荏原郡一帯などの写真も撮ったが、ここには、ニシベツ周辺部のものだけ
雄阿寒岳、雌阿寒岳への方位線はかなりインパクトがあった 国後からのそれは間宮のものだろうか (近藤重藏には、おそらくこのスキルは無かったと思われるので) |
(フロア展の展示物は、アメリカにあった伊能大図のレプリカ。
不可解なのは、☆が、
「アメリカ図」ではニシベツ川右(南)岸にあるのに対し、
この「地理院図」では左(北)岸にあることである。
(多分、当時の測量技術上、「地球の大きさを測る」ための基礎データとえいては「誤差範囲」と思うが)
に掲載の「寛政十二年測量自江戸至蝦夷西別小図」が有用かもしれない)
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