2021年9月12日日曜日

【域外】殖民軌道根室線を転換した矢臼別土場線

■当ブログの…

「ナカシベツ余話」中

【殖民軌道余話】殖民軌道矢臼別線跡・伊能忠敬の測量の北限

(以下「余話」という)で採り上げた標記の矢臼別土場線。

まだ、この折撮影したポジフィルムが見つけられず、上記アーティクルをまとめるのを先行させた。

■フィルムは…

まだ見つからないものの、この土場線について重要な史料が見つかったので、写真は後日追加することにして、まずは、土場線の沿革や経緯についてまとめることにした。

■北海道廳の…

殖民軌道根室線は、大正13年末に国鉄根室本線厚床から中標津まで、馬が貨車や客車を牽引する馬車軌道(馬鉄)として開通。昭和に入って標津まで延長されたが、昭和2年には輸送力の限界に達してしまった。

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 4 (syokuminkidou.blogspot.com)
中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 5 (syokuminkidou.blogspot.com)

それに対応するため、道廳は、アメリカ製ガソリン機関車を導入するとともに、直営化したが、わずか2年ほどで、それも輸送力が限界に達し、沿線各地で滞貨が生じる有様となった。

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 6 (syokuminkidou.blogspot.com)

以上 中標津の殖民軌道 (syokuminkidou.blogspot.com) 3~5項参照





■このような事態に…

対応するため、政府は、急遽、大正11年制定の鉄道敷設法に所定されていた「厚床附近より標津経由斜里に至る線」を、当初海岸沿いに敷設する前提で測量が進められていたところ、内陸部に敷設するための測量を行うことになった。

なお、昭和8年の第64回帝国議会で、鐡道敷設法を改正し、標茶-中標津間の鉄道(俗に標茶線と呼ばれる)が追加された

さらに、国鉄も従前からのローカル線規格である「丙線規格」の下に、「超」ローカル線規格といえる「簡易線規格」を制定してまでして、

昭和 8年12月に、厚床-西別間を開通させ

昭和 9年10月に、西別-中標津間、
昭和12年10月に、中標津-根室標津間

を順次開通させたのが、国鉄標津線(のうち通称厚床線)なのである。

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 7 (syokuminkidou.blogspot.com)

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年〔レジュメ〕  5.3~6.1

【余談】

この標津線の建設がいかに急務だったかを示す典型例として、以下のようなものがある。

    • 上記鉄道敷設法中には、予定線として「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道」が掲載されていた(別表33号)
    • これは、現在の野岩鉄道に該る鉄道であるが、その着工は昭和41年、一部非電化ながら全通したのは、昭和61年であり、標津線(別表149・150号)が廃止される平成元年のわずか2年半前だった

■しかし…

標津線が開通することによって、それまでの、沿線の物流・人流拠点だった、西別(現・別海)、中標津、(根室)標津は、鉄道の恩恵に浴することになったものの、従前の風蓮、矢臼別、開陽などは、標津線のルートから離れてしまったので、根室線は全面的に廃止されることなく

・厚床ー風蓮  間が、風蓮線 に
・矢臼別-西別 間が、矢臼別線 に
・中標津-開陽 間が、開陽線 に

加えて

・川北-旧北標津間の一部を、忠類線の一部に

転換のうえ、元の馬鉄として、残された。

■このうち…

風蓮線と開陽線が、(態様は異なるが)様々な変遷を遂げたのに対し、比較的早期に廃線になったのが、矢臼別線である。

昭和8年12月に標津線の厚床-西別間の開通にともない、根室線の厚床-西別間は廃止となったものの、そのうち、厚床-風連間、矢臼別-西別間は馬鉄として、それぞれ風連線、矢臼別線として残った。

ことに、矢臼別線は、矢臼別停留場ー西別停留場間だけでなく、矢臼別停留場からやや南のヤウシュベツ川までが残され、そこから東に折れてヤウシュベツ川沿いに、従前からある船着場(土場と呼ばれた)まで延長され、俗に矢臼別土場線と呼ばれていたらしい。

■このあたりの…

位置関係とか土場の状況は、なかなかわからなかったのだが、2008年10月半ば、この地の別海温泉ホテルの丹羽勝夫社長から、詳しくお伺いすることができたのである。

中標津の殖民軌道: 【殖民軌道余話】殖民軌道矢臼別線跡・伊能忠敬の測量の北限 

丹羽社長から頂いた、ホテル敷地内の「なつかし館」で行われた
「1枚のネガ展」の案内資料中の略図










・矢臼別の停留場は、土場線への分岐点よりも北、現在の木村宅あたりにあった

T11測S07鉄補1/50000「西別殖民地」矢臼別停留場周辺抜粋










北海道廰制作「映画・北海道の拓殖」中の
矢臼別停留場と消去法で推定される映像














・軌道の本線の、土場線の手前の部分には側線があった

根室から風蓮湖・ヤウシュベツ川を経て通ってくる船が着くときには、船に荷積する荷物を積んだ車両と、船から荷下ろしして西別方面に搬出する車両とが錯綜するので、双方が行き交えるように複線にしてあったと思われる

・土場線が、図の国道273号線を渡った先の左手には「新堀」という商店があった

昭和初期の話であり、周辺の人家もとりわけまばらなこの地で、商店が成り立っていたことは、この土場へのかなりの人流・物流があったと思われた

・土場は土を盛った堤防のような状態になっていた

ホテルは台地上にあったが、その周辺の低地は、ヤウシュベツ川の河岸に限らず湿原地帯だったと思われ、河岸からかなり離れた場所でも、軽くジャンプすると地面が揺れる状態で、敷地整備のための重機を入れるにも支障があったとのことだった

そのような場所に、土を盛って船着場の土手を作り、街道から取り付け道路を作るには、重機のない時代、相当の労力が必要だったと思われる

・結構気の荒いところで、新参者が船積みのために荷物を置いておくと、脇の林に放り込まれることもあったようだ

■この土場を…

めぐっては、ネット・オークションで入手した

新津谷 哲「『追憶』-西別-」同/2015年・刊

の「第二話 想い出話」中「『土場川』と新堀友次郎」(pp.92-93)、「殖民軌道『開拓者』を助ける」(pp.94-95)に、かなり詳細な情報があった。

■土場について

  • この土場や船着場は、南の風連川の河畔のそれなどと同様、官設のものではなく、利用者が造り維持管理していたもので、記録もないので、いつできたのかは不明
  • かつて、矢臼別へは、風蓮湖・ヤウシュベツ川をたどるほかにルートがなかったので、この船着場が根室との物資の輸送、交通の拠点となっていた
  • そのため、生活物資は根室から容易に調達出来たし、昭和初期からは、ここが開拓者の生産する木炭や薪、農産物の出荷に欠かせない重要な拠点にもなっていた
  • 土場と根室との間に定期船はなかったが、盛期には5、6隻の船が来て、土場が、開拓地から運びこまれた木炭、薪、木材、農産物等と船頭が根室から運んで来た物資とを交換しあう場所となっていた
【追記】
当時のヤウシュベツ川のはまずあり得ないとしても、風連湖の船の写真はないかと手許の史料やネット内を探したが見つからない。
その中で、参考になりそうな写真として
谷正一・編著「ふるさとの思い出 写真集 明治/大正/昭和 根室」国書刊行会/S58・刊
pp.14-15に「大正末期の根室港」という写真があった

手前の、帆柱がなく、吃水の浅そうな船は艀〔ハシケ〕






現地でみた土場跡のスケール観からして、矢臼別まで遡上したのは、いくら大きくてもせいぜい画面中央の


これでも、土場のところで方向転換できるかどうかアヤシイ

程度のサイズだろう。

■土場線について

  • 道路が泥濘して使えない秋・春に、開拓者の収入源である、木炭や薪を出荷できるようにするため、関係機関への度重なる要望により、昭和4年11月に殖民軌道根室線に、矢臼別から、538メートルの、根室線から分岐する川沿いの軌道(土場線)が敷設された
  • 昭和8年12月1日に厚床、西別間に標津線が開通後も、殖民軌道は同9年6月に西別から矢臼別川までの5,878メートルが残されて利用者の便宜が図られたが、昭和9年10月1日に標津線の西別、中標津間の鉄道が開通後の、同11年7月20日限りで殖民軌道矢白別線は廃止された

によれば

昭和3年、根室線の「矢臼別土場引込線」使用開始(昭和4年11月10日告示)  

      当時は、まだ馬鉄時代 

                       *ただし、昭和8年の別海村勢図には土場線の記載がない 

 昭和8年     根室線から西別-矢臼別間を分離

(根室線の風連-矢臼別間廃止) 

  昭和9年6月20日 旧根室線部分と土場引込線を一体として使用開始

         同年は貨物1500トンほどの輸送実績をあげた

         翌10年にはほとんど使われなくなった。

 昭和11年7月20日廃止(同年7月25日告示)

■新堀商店について

  • 初代の店主は、明治12年富山県で生まれの新堀友次郎で、明治35年4月、23歳で根室を経て根室郡厚別〔あつしべつ〕村*字ヤウシュベツ番外地の矢臼別橋そばに入った

*大正12年に、西別村・走古潭村と合併し別海村となる。なお、札幌の「厚別」は「あしりべつ」の由

  • 友次郎はここで炭屋として木炭や薪の買付け販売を営み、その後、炭屋の傍ら米や味噌、醤油、石油、駄菓子、煙草など生活物資を根室から仕入れ小さな店を営んだが、当時周辺のヤウシュベツ原野にいた、根室の大規模牧畜業者20数戸、80~100の炭窯、その他の開拓者に、根室まで買出しに出かける手間が省けるので重宝された
  • 商店では、天候などで根室や奥地に帰れない人のために宿を提供したり、急用や急病人が出た時には、友次郎が自ら舟を操り根室までの送り迎えした模様である
  • また、大正8年8月からは「林産物検査員」が駐在し、木炭の等級分けのための検査をする場所でもあった
  • 「土場川の新堀」と名を馳せた友次郎は、昭和6年に52歳で生涯を閉じ、商店を引継いだ長男信一は、標津線開通後の昭和13年6月、西別市街に転居して「新堀薪炭店」を開業した
  • 西別に転住後、信一は、周囲に推されて村議会議員となったほか、民生委員、統計調査員など多くの要職を引き受け地域の発展に貢献した




2021年7月24日土曜日

講演録:ナカシベツの交通100年〔レジュメ〕

 平成23年9月23日に中標津町しるべっとでお話させていただいた折のレジュメとプレゼン資料です。

当日のお話は、幸い、大半が、伝成館の飯島さんが、YouTubeにアップロードして下さっているので、

https://www.youtube.com/watch?v=B6GU_gG7NMU

併せて、ご視聴ください


平成23929

ナカシベツの交通100年

原野の新幹線 殖民軌道

                                          木  村    孝

東京在住・旧「中標津ファンクラブ」会員

http://baumdorf.my.coocan.jp/KimuTaka/Kikigaki/Sokumin1.htm

1 殖民軌道前史

-なぜ「ナカシベツから」だったのか-

1.1   最後のフロンティア「根室原野」

人口密度 45人/平方里≒3人/km2 56,891/1,273,024平方里)

cf.釧路國 142人 網走 303 (各T14/10/01現在) 【資料1】右下

1.2   拓殖制度とそのインフラ整備

1.2.1 「国有未開地処分法」と拓殖計画

    ・国有未開地処分法(新法) M41年

     「特定地」制度 無償貸下げ・付与 但し、下記の資格制限有り

        一般の未開地  有償払下げ

     ・北海道拓殖計画

      第1期 M44年~S01年(15年間)

          T06年~          募集(開拓)から定住へ

                 経済状況 景気変動・農産物価格 の影響←どう繋ぎ止めるか?

          T12年ころ~       第2期の実験・先取り時期

      第2期 昭和02年~昭和21年(20年間)

1.2.2 第1期拓殖計画の基本スタンス

     接保護=インフラ(有形・無形。とくに、土木中心)の整備      cf.直接保護

     第1期計画への批判の例

大蔵省主計局主計官 荒川昌二・著「北海道拓殖計画ニ就テ(前)」

「北海道ヘ移住スル農民ノ大多数ハ自作農トナル為デアルガ、親シク之等ノ移民ノ言ヲ聴クト、大部分道路其ノ他ノ交通機関ノ不備ヲ訴エ、又ハ小学校及医者ノ配置ヲ切望シテ居ル。

 至極尤モノコトデアッテ、之等ノ施設ガ不完全デハ非常ナ決心ヲシテ自作農タラントスルモノデモ、中途ニシテ逃ゲルノモ無理モナイ。」

中外商業新報 1926(15).9.13

北海二期拓殖計画と鐵道並に港湾 車窓より見た北海道〔五〕

「…鉄道敷設に対して実際拓殖の局に当るものが如何なる希望を有しているかを見るに、北海道の如く交通不便の所には鉄道は是非共必要で、到底内地との比ではない、即ち内地では道路が比較的完備しているから汽車の便がなくとも馬車、荷車等に依って生産物を供給地に運搬することも出来るが北海道では道路といっても単に原野を切り開いたのみで道路に必要な一切の設備が施されていないため、泥濘の場合には車軸までも泥中に埋ずまる状態である、従って需要地と遥に離れた山間より持運ぶのであるから、鉄路による外はない。 」

間接保護の拡充+直接保護(各種補助金)への一部回帰の検討が必要になった

第2期計画での転換とその先取り

※各制度の詳細は、【資料2】【資料3】参照

1.3   根室原野の衛生・教育などのインフラ

  拓殖補助醫

  拓殖産婆

  「殖民地の教育機関」

  移住者世話所

1.4   根室原野の交通インフラ

1.4.1   水運

根室・標津間

釧路・標茶間

    ただし、冬季凍結・氷結

原野の河川は…(北海道殖民地撰定報文 M24

 ヤウシュベツ川は河口部の浚渫により汽船通航可能

       後に根室からの通船→後の、軌道「矢臼別土場線」に

 他は、丸木舟が通える程度

1.4.2   道路

明治期

  海岸ルート(仮定懸道 北海岸線)

 厚床=別當賀=(温根沼)…=遠太…=(本)別海=春別…標津

 根室郵便局前//

  … 舟運

  - 馬車通行困難(北海道殖民地撰定報文 M24 p.356「春別原野」)

  新斜里山道

 網走=古樋(フレトイ)(小清水町)=斜里=越川=平取(休)=瑠辺斯=糸櫛別=標津

大正期

  標津―標茶  T08           S02:釧網(本)線 標茶まで開通

   標茶=虹別=計根別=中標津=標津

  中標津―厚床 T10           T08:根室(本)線 厚床まで開通

厚床=奥行臼=西別=中春別=中標津

     トラック郵送・バス輸送も小規模ながら勃興(町史pp1073-1075.

駅逓所ネットワーク

       当時の道路実情

              開拓道路

              まして「古道」は…

1.4.3   鉄道

M43 総延長  724マイル 0.14マイル/平方里

       T08 総延長 1004マイル 0.17マイル/平方里

      「拓殖鐵道公債利子支出金」(北海道第一期拓殖計畫事業報文p.585

「大正八年度の既定計畫改訂に於いて本道拓殖の既往の實績に徴し其の現状に鑑みて、鐵道敷設は本道拓殖の促進上焦眉の問題となつたが由來拓殖鐵道の性質は其の初期に於ける収支は多く相償はざるが故に、拓殖鐵道速成の爲に發行する公債若くは借入金の利子は之を本道開發を主眼とする拓殖事業費より支辨する方策を立て…」

建設線の繰り上げ

根室線 (釧路-根室)

 予定建設期間 T06~T15 → T06~T10

追加線

斜里線 (網走-斜里)

                  T10~T14

→釧網(本)線全通     S06

予定線の建設線への格上げ

 標津線 (厚床-根室標津)     T15(S01)

 

       他に、地方鉄道(ex.標津殖民鉄道、第二標津殖民鉄道)、軌道

       への配当補給の上積み制度

 

2 「殖民軌道」とは何か

2.1   鉄道と法律

   国有鉄道法[旧・国鉄]/地方鉄道法[いわゆる私鉄]/軌道法[路面電車など]

2.2   「殖民軌道」の特殊性

    鉄道3法に根拠を置かない

    ただし、直営線には軌道法を「準用」

  北海道廳(当時)*の直轄 =国有財産

      *内務省所管の国の官署 機能

                          ≒旧・北海道開発庁+(自治体としての)北海道庁

      将来的には、沿線町村への移管を企図

  公衆に自由使用させる(線路・貨車・倉庫)

性格≒道路 典型:養老牛線 例外:根室線(1次)=直営化

実際には、運行組合を形成し、維持管理にあたる例が多く、道廰も奨励

北海道廰殖民軌道使用規程

(大正145月廰令第47号、改正:昭和4911日廰令第75)

第16条 殖民軌道ノ使用ニ付申合又ハ組合規約ヲ設ケタルトキハ代表者ヲ定メ移住者世話所ヲ経テ北海道廰ニ届出ツヘシ

同 上(改正:昭和15512日廰令第41)

第21条 殖民軌道ノ使用ニ付運行組合ヲ設置セントスルトキハ組合規約ヲ設ケ長官ノ許可ヲ受クベシ之ヲ変更セントスル場合亦同ジ

第22条 前条ノ組合ニ対シテハ公衆ノ使用ヲ妨ゲザル限度ニ於テ一定ノ期間付属貨車及倉庫ヲ貸付スルコトアルベシ

第23条 組合ノ業績優良トミトメタルトキハ審査ノ上之ヲ表彰スルコトアルベシ

  農民優先

    農業倉庫の併設 ただし「公益」にも配慮

同 上(大正145月廰令第47号、改正:昭和4911日廰令第75)

第1条

  ① 本規程ニ於テ殖民軌道ト称スルハ無償ニテ公衆ノ使用ニ供スル為敷設シタル軌道及其ノ附属貨車並倉庫ヲ謂ウ

第3条 殖民軌道ヲ使用セムトスル者ハ左ノ各号ヲ遵守スヘシ

            

二.貨車ノ連結ハ二車ヲ超過スヘカラス

三.貨車ノ積載量ハ一車ニ附貨物ニ在リテハ四百貫旅客ニアリテハ八人以下トス

四.貨車ノ運転速度ハ一時間八哩ヲ超過スヘカラス

            

八.使用中他人ヨリ貨物運搬ノ依頼ヲ受ケタル時ハ自己ノ貨物運搬ニ支障ナキ限リハ之ヲ拒ムコトヲ得ス

第9条

 附属倉庫ニハ使用セムトスル者自ラ生産シ且ツ現ニ其ノ所有ニ属スル農産物以外ノモノヲ蔵置スルコトヲ得ス

 

3「馬鉄」の時代

3.1   大正13年:厚床―中標津間開通

・直接の契機「保護移民」(T12

「大正十三年道内重要事項調査書」 北海道廰

「根室原野ハ、…拓殖ノ進歩殆ド見ルベキモノナキハ、交通機關ノ不備其ノ主因ヲナシ、鉄道敷設ノ急施ヲ叫ブト雖モ、急速實現不能トスル事情アルヲ以テ、之ガ補助機關トシテ、一般運輸交通ノ便ニ供スベキ馬車鐵道敷設方講究シツツアリシニ、大正十二年度ニ於テ、一百八十三戸ノ自作保護移民ヲ川北茶志骨中標津ノ三原野ニ収容スルコトニ決定セルヲ以テ、之等移民ノ保護、企業ノ助成、愈々其ノ敷設ノ急ヲ認メ、大正十三年度…ノ開始ト共ニ直ニ其準備ヲ進メ、五月工ヲ起シテ…十二月十七日全ク工ヲ了シテ、同十八日ヨリ開通セリ。」

・「補助移民」の将来の特定地への大量移住も計画していた

「北海道第一期拓殖計畫事業報文」 北海道廰 p.83

「元來殖民地に於ける物資の輸送は交通機關の便に竢たぎるべからず、而して其の便否は移住者の消長に影響を及ぼし開拓不振の一大原因なるに鑑み、大正十三年に於て始めて試験的施設として漸次許可移民を入地せしむべき特定地の比較的多き地方根室國中標津原野より根室線鐵道厚床驛三十六哩の初代軌道の敷設を計畫し、更に昭和元年度に於て此れが延長線及支線約十五哩敷設の計畫を樹てた。」

3.2   昭和02年:標津・計根別への延長

    開陽(町史pp.1046-1047)・中央武佐への迂回運動

なぜ「計根別」だったのか →官製SC

3.3   「馬鉄」は、どんなモノを運んだのか

3.4   「農試」と軌道

鉄筋コンクリート造

   その「資材」と「機材」

4 「ガソリン」の時代

4.1 「馬鉄」の限界

    「馬鉄」の輸送力   16~17.6トン/日

       1日上下各1運行、1台最大積載量400貫、1運行10(~11)台

 S01年(開通実質2年目)ですでに限界(上表参照)

←補助移民の集中移住(S02S04年平均 全道1300戸中645戸(T14 57,000人)

   市街地の形成と第2、3次産業の勃興

→輸送力増強の必要 →S04の動力化(ガソリン機関車の導入)


4.2 「内地(府県)連絡線」としての軌道

4.2.1 「ガソリン」の輸送力

       機関車・客車・貨車はどのようなものだったのか

        機関車:ホイットコム社製ガソリン機関車

ミルウォーキー社製ガソリン機関車(共に米国製)

        客車 :木造 定員14名+車掌席

        貨車 :木造 最大積載量 2トン

4.2.2   ダイヤの特徴

・旅客輸送の重視 ←「客車」(+手荷物車)の連結

・中標津中心ダイヤ

・内地連絡ダイヤ


4.2.3   貨物輸送

「ガソリン」は、どんなモノを運んだのか

hいわゆる「穀菽こくしゅく農業」を反映

 

5 「殖民軌道」と「標津線」

5.1 「標津線」をもたらした「馬鉄」

       馬鉄は、開通2年目から輸送力のほぼ限界に達していた

     鉄道敷設法 T11法律37

            別表149「根室国厚床附近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里二至ル鉄道」

            あくまで「予定線」

 ex.別表33「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道 及高徳ヨリ分岐シテ矢板ニ至ル鉄道」→S611986)野岩鉄道開通

    T15年度予算[推定:調査費計上]

        建設線への格上げ(T18=S04年度着手・T25=S10年度完成)

5.2 「原野線」をもたらした「ガソリン」

 「ガソリン」の輸送力

     1日上下各2運行、1両最大積載量2トン、1列車貨車数5~6両

     列車の標準的な編成:機関車+貨車(5~6両)+客車+手荷物車

     20トン/日(標準編成)・35トン/日(増発時)

 「ガソリン」も、早々に限界に達する

S05年8月(動力化翌年)   武佐での滞貨(農産品)

S06年5月(動力化2年経過後)厚床・浜釧路に2700トン滞貨(肥料)

註:標津線(厚床線):厚床-西別間開通後

5.3 「厚床線」と「標茶線」

    軌道による「物流」「経済圏」の変化

       中標津: 根室→標津→中標津 から 釧路→厚床→中標津 に

              =根室経済圏→釧路経済圏へ

「軌道の思い出(一)」伊藤精一・著

(「郷土研究なかしべつ」第1巻所収)p15

「それまで中標津を中心とする原野は、浜標津港を経由し、根室市の勢力配下にあったが、馬鉄の開通によって、恩顧ある根室を袖にして、釧路に旦那を求め、釧路へ釧路へとなびいた。釧路の財力によって原野の経済、文化は躍進の歩を進めたのである。」

cf.釧路市の人口密度【資料2】14153人/1平方里(42,332/2,991平方里)

       計根別: (中)標津経済圏(武佐・中標津から誘致された)

        →(釧路・標茶+)西春別・計根別(後に+虹別)経済圏の形成

                                 →分村運動へ

         計根別線 中標津・計根別    S02/11/?? 全通

S09(1934) 貨物:2000トン+α 旅客: 900人±

      標茶線  標茶・西春別・計根別 S07/10/20全通

              S09(1934) 貨物:4496トン   旅客:1779

        ex.標津殖民鉄道(標茶-中標津)T13/10

          第二標津殖民鉄道(中標津-標津)S02/08

          の免許申請(釧路資本)

  鉄道敷設法 別表150「根室国中標津ヨリ釧路国標茶ニ至ル鉄道」

(昭和8年法律38号:鉄道敷設法改正法)

 

5.4   根室原野を救った「標津線」

    「穀菽(こくしゅく)農業」

             在来農法→和田屯田兵村での失敗【資料3】 根室原野の「トラウマ」

             根室原野の地質・気候に対応できなかった

→「混同農業」

       別名・デンマーク農法 農試を挙げて推進(農業指導者の招聘など)

              支場にとっても「目玉」プロジェクト ex.農事経営試験【資料3】

→「主畜農業」

              昭和67年の冷害・霜害後の「根釧原野農業開発五ケ年計画」で転換

              しかし、それには、「原理的」に、

・「地の利」または「加工施設」+「大量輸送手段」

(地の利=大消費地近郊 札幌、東京の例)

が必須

 

       S06年08月:標津線(厚床線)原野線に決定

       S07年03月:標津線(厚床線)着工

       S07年10月:北海道製酪農販売組合連合会(現・雪印乳業)

                                                       ・中標津集乳所

S09年09月:同・中標津製酪工場

S09年10月:標津線(厚床線)(厚床-)西別-中標津間開通

 

6 「標津線」と、その後の殖民軌道

6.1 「駆け込み」のローカル線規格

6.1.1 従来からの批判

中外商業新報 1926(15).9.13

北海二期拓殖計画と鐵道並に港湾 車窓より見た北海道〔五〕

「…鉄道当局は最初より完全な鉄道を敷設する計画を樹つるがため多額の経費を計上することとなり、計画倒れとなる、北海道の如き土地開発のための鉄道は、将来改良をなし得る程度に止め、至極簡易の鉄道を敷設し、一日に一二回の運転能力にても充分に要求を満たし得るのである、故に内地方面では改主権[「建」]従も理由はあろうが北海道にもこれを適用せんとするは、拓殖上に甚だ迷惑のことであると称している。

 これは当時者として当然のことであるが、何分将来の改良を見越して、鉄道敷設を行うということは技術上相当議論のある所であるから、当局がこの議論に直に耳を傾けることもなかろうが、さりとて鉄道敷設上一面の真理があり強がち聞流しも出来ない訳である」

6.1.2 最初の機関車「C12」と「簡易線規格」

「地方鉄道(私鉄)並み」の国鉄線

 従来の「ローカル線規格」(丙線規格)のさらに下

 路盤の強度/線路の曲率・勾配/駅・信号の設備の規格

ただし「軸重」の軽い、新型機関車を開発する必要 →C12、C56

       後の、無煙化の後れ(=C11運用の長期化)の原因にもなった

6.2 「殖民軌道」の変質

標津線開通にともない、順次廃止

  例外:風蓮線、矢臼別土場線、忠類線(川北附近のみ)

     計根別駅前線→養老牛線も可能性あり

「新幹線」から「亜幹線」へ

廃止路線の資材の他路線への転用 計根別線→養老牛線(「馬鉄の倉庫」も)

6.3 再度の馬鉄から、戦後の町村営簡易軌道、そして自動車の時代へ

養老牛線

風蓮線→最後まで残った「根室線(1次)」

      →ディーゼル化された別海町営軌道に敷設替え

6.4 ナカシベツ町内の軌道の俤

6.4.1「見える」場所

 武佐神社前の転車台

 開陽の「馬鉄の倉庫」(倒壊→消滅)

空港滑走路西端北の築堤

6.4.2 「歩ける」場所

 森林公園内の遊歩道

正美公園東の遊歩道

6.4,3 「走れる」場所

   「本通り」の、標津川右岸の川岸段丘崖下から中標津大橋北詰あたり

町立保育園前の築堤上の道路

                                                               以上


《配付資料》

資料1:北海道移住案内[第二十七](S03年ころ) 北海道全図(抜粋)

資料2:「北海道自作農移住者募集」(同上) 縮小コピー

資料3:「北海道根室国に於ける農業の地理的考察」松丸乙近・著

(「地理教材研究[第十五輯]」

  地理教材研究会・編/目黒書店S06325日・刊 所収)

資料4:根室原野殖民軌道路線図

 

《参考資料》

■中標津町図書館蔵

「根室大観」北海道根室支庁/1929年・編/刊

 

「混合列車 第19号(特集・標津線)」 北海道大学鉄道研究会/1990年・編/刊

「彩雲鉄道 標津線の五十六年」 根室市ほか/1989年・編/刊

「北海道鉄道跡を紀行する」堀淳一・著/北海道新聞社1991年・刊

 

「郷土研究なかしべつ 創刊号」中標津郷土研究会/1976年・編/刊

   〔「軌道の思い出(一)」伊藤精一・著〕

「郷土研究なかしべつ 第2号」中標津郷土研究会/1977年・編/刊

   〔「軌道の思い出(2)」伊藤精一・著〕

「郷土研究なかしべつ 第3・4号」中標津郷土研究会/1979年・編/刊

   〔「殖民軌道について」酒井久枝ほか・著〕

 

「開陽七十年史 輝望」開陽開基70周年記念行事実行委員会/1986年・編/刊

「五十年のあかし」計根別地区開基50周年/計根別小学校開校50周年記念協賛会/1978年・編/刊

「風雪に耐えて」

   西竹地区開基50周年記念事業協賛会/若竹小学校開校30周年記念事業協賛会/1989年編・刊

 

「謎の殖民軌道」芳賀信一/2006年著・刊

 

「別海町百年史」別海町百年史編さん委員会・編/別海町1978年・刊

「大いなる町・別海」楢山満夫/1986年・編/刊

「中標津町史」中標津町史編さん委員会・編/中標津町1986年・刊

「中標津町開町40年記念写真集 ふるさとなかしべつ不惑の40歳」総合出版/1986年・編/刊

「五十路のなかしべつ」中標津町/1995年・編/刊

 

「北海道開拓の夢をエンジンに託して」玉沢正春・著/新風社2006年・刊

 

 

 

■その他書籍

「栄光の五十年」養老牛開基記念祝賀協賛会/1978年・編/刊

「幻の北海道殖民軌道を訪ねる」田沼 建治・著/交通新聞社2009年・刊

「日本鉄道旅行地図帳 1巻 北海道」今尾恵介・監修/新潮社2008年・刊

 

Google Books 所収

「北海道第一期拓殖計畫報文」

「北海道殖民地撰定報文」

「地理教材研究第十五輯」〔「北海道根室国に於ける農業の地理的考察」松丸乙近・著〕

 

■その他ネット上の情報

簡易軌道歴史館

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/8284/

中標津町内殖民軌道探査記録

http://homepage3.nifty.com/baumdorf/KimuTaka/Kikigaki/Sokumin1.htm

 

国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム(国土地理院 昭和20年代連合軍撮影のものあり)

 http://archive.gsi.go.jp/airphoto/

国土情報WEBマッピングシステム (国土交通省 昭和50年代 高精細度)

 http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/

 

土木建築工事畫報

 http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/gaho/kenchikukouji/index.html