2021年9月12日日曜日

【域外】殖民軌道根室線を転換した矢臼別土場線

■当ブログの…

「ナカシベツ余話」中

【殖民軌道余話】殖民軌道矢臼別線跡・伊能忠敬の測量の北限

(以下「余話」という)で採り上げた標記の矢臼別土場線。

まだ、この折撮影したポジフィルムが見つけられず、上記アーティクルをまとめるのを先行させた。

■フィルムは…

まだ見つからないものの、この土場線について重要な史料が見つかったので、写真は後日追加することにして、まずは、土場線の沿革や経緯についてまとめることにした。

■北海道廳の…

殖民軌道根室線は、大正13年末に国鉄根室本線厚床から中標津まで、馬が貨車や客車を牽引する馬車軌道(馬鉄)として開通。昭和に入って標津まで延長されたが、昭和2年には輸送力の限界に達してしまった。

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 4 (syokuminkidou.blogspot.com)
中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 5 (syokuminkidou.blogspot.com)

それに対応するため、道廳は、アメリカ製ガソリン機関車を導入するとともに、直営化したが、わずか2年ほどで、それも輸送力が限界に達し、沿線各地で滞貨が生じる有様となった。

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 6 (syokuminkidou.blogspot.com)

以上 中標津の殖民軌道 (syokuminkidou.blogspot.com) 3~5項参照





■このような事態に…

対応するため、政府は、急遽、大正11年制定の鉄道敷設法に所定されていた「厚床附近より標津経由斜里に至る線」を、当初海岸沿いに敷設する前提で測量が進められていたところ、内陸部に敷設するための測量を行うことになった。

なお、昭和8年の第64回帝国議会で、鐡道敷設法を改正し、標茶-中標津間の鉄道(俗に標茶線と呼ばれる)が追加された

さらに、国鉄も従前からのローカル線規格である「丙線規格」の下に、「超」ローカル線規格といえる「簡易線規格」を制定してまでして、

昭和 8年12月に、厚床-西別間を開通させ

昭和 9年10月に、西別-中標津間、
昭和12年10月に、中標津-根室標津間

を順次開通させたのが、国鉄標津線(のうち通称厚床線)なのである。

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年 7 (syokuminkidou.blogspot.com)

中標津の殖民軌道: 講演録:ナカシベツの交通100年〔レジュメ〕  5.3~6.1

【余談】

この標津線の建設がいかに急務だったかを示す典型例として、以下のようなものがある。

    • 上記鉄道敷設法中には、予定線として「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道」が掲載されていた(別表33号)
    • これは、現在の野岩鉄道に該る鉄道であるが、その着工は昭和41年、一部非電化ながら全通したのは、昭和61年であり、標津線(別表149・150号)が廃止される平成元年のわずか2年半前だった

■しかし…

標津線が開通することによって、それまでの、沿線の物流・人流拠点だった、西別(現・別海)、中標津、(根室)標津は、鉄道の恩恵に浴することになったものの、従前の風蓮、矢臼別、開陽などは、標津線のルートから離れてしまったので、根室線は全面的に廃止されることなく

・厚床ー風蓮  間が、風蓮線 に
・矢臼別-西別 間が、矢臼別線 に
・中標津-開陽 間が、開陽線 に

加えて

・川北-旧北標津間の一部を、忠類線の一部に

転換のうえ、元の馬鉄として、残された。

■このうち…

風蓮線と開陽線が、(態様は異なるが)様々な変遷を遂げたのに対し、比較的早期に廃線になったのが、矢臼別線である。

昭和8年12月に標津線の厚床-西別間の開通にともない、根室線の厚床-西別間は廃止となったものの、そのうち、厚床-風連間、矢臼別-西別間は馬鉄として、それぞれ風連線、矢臼別線として残った。

ことに、矢臼別線は、矢臼別停留場ー西別停留場間だけでなく、矢臼別停留場からやや南のヤウシュベツ川までが残され、そこから東に折れてヤウシュベツ川沿いに、従前からある船着場(土場と呼ばれた)まで延長され、俗に矢臼別土場線と呼ばれていたらしい。

■このあたりの…

位置関係とか土場の状況は、なかなかわからなかったのだが、2008年10月半ば、この地の別海温泉ホテルの丹羽勝夫社長から、詳しくお伺いすることができたのである。

中標津の殖民軌道: 【殖民軌道余話】殖民軌道矢臼別線跡・伊能忠敬の測量の北限 

丹羽社長から頂いた、ホテル敷地内の「なつかし館」で行われた
「1枚のネガ展」の案内資料中の略図










・矢臼別の停留場は、土場線への分岐点よりも北、現在の木村宅あたりにあった

T11測S07鉄補1/50000「西別殖民地」矢臼別停留場周辺抜粋










北海道廰制作「映画・北海道の拓殖」中の
矢臼別停留場と消去法で推定される映像














・軌道の本線の、土場線の手前の部分には側線があった

根室から風蓮湖・ヤウシュベツ川を経て通ってくる船が着くときには、船に荷積する荷物を積んだ車両と、船から荷下ろしして西別方面に搬出する車両とが錯綜するので、双方が行き交えるように複線にしてあったと思われる

・土場線が、図の国道273号線を渡った先の左手には「新堀」という商店があった

昭和初期の話であり、周辺の人家もとりわけまばらなこの地で、商店が成り立っていたことは、この土場へのかなりの人流・物流があったと思われた

・土場は土を盛った堤防のような状態になっていた

ホテルは台地上にあったが、その周辺の低地は、ヤウシュベツ川の河岸に限らず湿原地帯だったと思われ、河岸からかなり離れた場所でも、軽くジャンプすると地面が揺れる状態で、敷地整備のための重機を入れるにも支障があったとのことだった

そのような場所に、土を盛って船着場の土手を作り、街道から取り付け道路を作るには、重機のない時代、相当の労力が必要だったと思われる

・結構気の荒いところで、新参者が船積みのために荷物を置いておくと、脇の林に放り込まれることもあったようだ

■この土場を…

めぐっては、ネット・オークションで入手した

新津谷 哲「『追憶』-西別-」同/2015年・刊

の「第二話 想い出話」中「『土場川』と新堀友次郎」(pp.92-93)、「殖民軌道『開拓者』を助ける」(pp.94-95)に、かなり詳細な情報があった。

■土場について

  • この土場や船着場は、南の風連川の河畔のそれなどと同様、官設のものではなく、利用者が造り維持管理していたもので、記録もないので、いつできたのかは不明
  • かつて、矢臼別へは、風蓮湖・ヤウシュベツ川をたどるほかにルートがなかったので、この船着場が根室との物資の輸送、交通の拠点となっていた
  • そのため、生活物資は根室から容易に調達出来たし、昭和初期からは、ここが開拓者の生産する木炭や薪、農産物の出荷に欠かせない重要な拠点にもなっていた
  • 土場と根室との間に定期船はなかったが、盛期には5、6隻の船が来て、土場が、開拓地から運びこまれた木炭、薪、木材、農産物等と船頭が根室から運んで来た物資とを交換しあう場所となっていた
【追記】
当時のヤウシュベツ川のはまずあり得ないとしても、風連湖の船の写真はないかと手許の史料やネット内を探したが見つからない。
その中で、参考になりそうな写真として
谷正一・編著「ふるさとの思い出 写真集 明治/大正/昭和 根室」国書刊行会/S58・刊
pp.14-15に「大正末期の根室港」という写真があった

手前の、帆柱がなく、吃水の浅そうな船は艀〔ハシケ〕






現地でみた土場跡のスケール観からして、矢臼別まで遡上したのは、いくら大きくてもせいぜい画面中央の


これでも、土場のところで方向転換できるかどうかアヤシイ

程度のサイズだろう。

■土場線について

  • 道路が泥濘して使えない秋・春に、開拓者の収入源である、木炭や薪を出荷できるようにするため、関係機関への度重なる要望により、昭和4年11月に殖民軌道根室線に、矢臼別から、538メートルの、根室線から分岐する川沿いの軌道(土場線)が敷設された
  • 昭和8年12月1日に厚床、西別間に標津線が開通後も、殖民軌道は同9年6月に西別から矢臼別川までの5,878メートルが残されて利用者の便宜が図られたが、昭和9年10月1日に標津線の西別、中標津間の鉄道が開通後の、同11年7月20日限りで殖民軌道矢白別線は廃止された

によれば

昭和3年、根室線の「矢臼別土場引込線」使用開始(昭和4年11月10日告示)  

      当時は、まだ馬鉄時代 

                       *ただし、昭和8年の別海村勢図には土場線の記載がない 

 昭和8年     根室線から西別-矢臼別間を分離

(根室線の風連-矢臼別間廃止) 

  昭和9年6月20日 旧根室線部分と土場引込線を一体として使用開始

         同年は貨物1500トンほどの輸送実績をあげた

         翌10年にはほとんど使われなくなった。

 昭和11年7月20日廃止(同年7月25日告示)

■新堀商店について

  • 初代の店主は、明治12年富山県で生まれの新堀友次郎で、明治35年4月、23歳で根室を経て根室郡厚別〔あつしべつ〕村*字ヤウシュベツ番外地の矢臼別橋そばに入った

*大正12年に、西別村・走古潭村と合併し別海村となる。なお、札幌の「厚別」は「あしりべつ」の由

  • 友次郎はここで炭屋として木炭や薪の買付け販売を営み、その後、炭屋の傍ら米や味噌、醤油、石油、駄菓子、煙草など生活物資を根室から仕入れ小さな店を営んだが、当時周辺のヤウシュベツ原野にいた、根室の大規模牧畜業者20数戸、80~100の炭窯、その他の開拓者に、根室まで買出しに出かける手間が省けるので重宝された
  • 商店では、天候などで根室や奥地に帰れない人のために宿を提供したり、急用や急病人が出た時には、友次郎が自ら舟を操り根室までの送り迎えした模様である
  • また、大正8年8月からは「林産物検査員」が駐在し、木炭の等級分けのための検査をする場所でもあった
  • 「土場川の新堀」と名を馳せた友次郎は、昭和6年に52歳で生涯を閉じ、商店を引継いだ長男信一は、標津線開通後の昭和13年6月、西別市街に転居して「新堀薪炭店」を開業した
  • 西別に転住後、信一は、周囲に推されて村議会議員となったほか、民生委員、統計調査員など多くの要職を引き受け地域の発展に貢献した